小さなうつわのメッセージの「折々の記 第59号 」

折々の記第59号

北関東のカトリック

この地域でのカトリックの神父様方の布教について書かれてある「カトリック浦和教区史誌編集委員会編」【北関東のカトリック】という著書が家にありましたので、当時の事を知るために読みました。

【明治政府とキリスト教】

新政府は、幕府時代の多くの民事的制度を踏襲しようとした。

在日外交使節や新政府雇いの外国人たちが、この方針に疑問を提起したり、改革を要請した。一方で、政府は幕府が締結した条約の不平等性に気付き、その改正をはかることに苦心していた。

【高札の撤去】

明治新政府は、天皇の名において1868(明治元年)三月、五か条の御誓文を発し、神道国家という政治体制をとった。

切支丹の取り締まりについては、旧幕府の方針に従う事を布告したが、これに対し、各国からの抗議が続き、新政府は1873年(明治6年2月)キリシタン禁制の高札撤去にいたった。その頃、日本全国には、カトリック信徒約15000人、伝道師227人、サンモール会の修道女は6人いた。

1885(明治18年)9月、ローマ教皇レオ13世は「日本におけるカトリック信徒に寛容な措置をとってもらいたい」という親書を、明治天皇に送呈され、明治天皇は、日本における宣教師の保護と、日本人のキリスト教徒の権利や保護を与えることを約束され、プロテスタントの教会も保護されました。それから、キリスト教の再布教が始まります。

当時の日本全国で、3万人のカトリック信徒、60人のパリの外国宣教会の司祭、その他、日本の司祭修道女日本人の伝道師等が250人いたそうです。

【第2次世界大戦と北関東の司牧】という項には、

開戦と同時に外国籍の聖職者が拘束され・・・。1942年(昭和17年)外国籍司祭はすべて抑留・・・そして、当時の信徒も周囲から冷たい目で見られ、地方では、村八分にされた家もあったという。

更に戦局が深刻になるにつれて、北関東の教会で、司祭が常駐しているのは、浦和教会のみとなったと書かれています。

【1945年(昭和20年)の敗戦】

それを機に、抑留されていた外国籍司祭は、それぞれ担当する各教会にいち早く復帰し、精力的な活動を再開。地域と教会の復興に全力を挙げ、魂と物とに飢えていた人々に尽くした。

そして、戦後の日本に、信仰の自由が始まりました。

館林には、カディヤック師が、1884(明治27)年頃から、年に数回巡回されて、杉沼とりさん宅でミサがおこなわれ、正田氏の先々代や、花山うどんの先代の橋田氏がミサにあずかったという。

という文がありました。

館林でお会いしたお年を召した方の思い出話にあった、杉沼とりさんの家でのことです。

とりさんは、私の夫の祖母です。


旧小さなうつわのメッセージ(山梨版)は、こちら