小さなうつわのメッセージの「折々の記 第59号 」

折々の記第59号

カトリックとのご縁の流れから・・・

1885年(明治18年9月)カトリック教会オズーフ司教は、ローマ教皇レオ13世の親書を明治天皇に送呈したその頃、館林に布教にいらっしゃったのが、パリミッションのカディヤック神父様。カディヤック神父様のお名前は、主人の両親から何度もうかがっていましたから、私の記憶にそのお名前は、刻まれております。

『北関東のカトリック』第2章「宣教再開の時代」の「ヤソ学校」と題されたところにも、そのお名前が記されていました。

宇都宮に開設された最初の教会は、1888年明治21年に、カディヤック神父が土地付きの建物を買収したことに始まる。

其の後もカディヤック神父様は、信徒の信仰を深める宣教の為に必要な建物を建てるお仕事をされて、カトリック信徒が集い祈る場所をつくられたことが、記されていました。

まだ、館林に教会の出来る前の事です。主人の実家にカディヤック神父様がこられての御ミサの折には、神父様の御膝に、まだ赤ちゃんだった義父がチョコンと坐っていたと、老年の信者の方にお聞きした事がありました。

明治からのキリスト教徒の家にご縁を戴いた私は、聴覚障害、視覚障害、知的障害などの、障害をもたれた方々とのご縁を戴き、そのご縁の流れから「小さなうつわの会」が発会。そして、「小さなうつわの会」の集りを終えた後に、「小さなうつわの会」のホームページの【小さなうつわのメッセージ】を綴る事になりました。

思えば、今生私に戴いた障害をもたれた方々とのご縁の、その最初の障害者は、まず私の母でした。

私の8歳の頃の事、当時特別の職業にあった父の単身赴任の折に、その職場の配慮から、父の身のまわりの世話をする女性が配されたとの事でした。父は、男が遊ぶ花街などには行かない真面目な人でしたので、その配慮もあっての事と聞いたことがありましたが、その事を知った繊細で純粋な母は、心の病、精神分裂症になりました。そして父の立場上、母は人に知れない辺鄙な場所にある精神病院に入院させられて、母の身体が弱るようにと、だんだんと食を減らされ、最期は餓死でこの世を去りました。今では考えられないことですが・・・。

その母が私の人生の土台にあったのでしょうか、私の戴いた人生は、障害のある方々とのご縁を次々と戴きました。その最初は、1972年マリア様のご縁の月の5月の、観音様のご縁の日の18日に、アメリカのコロラド州デンバーで、聴覚障害のご夫妻との御縁を戴き、その日に「Melting evil the love」「罪を溶かす愛」「罪を清める愛」というメッセージを、戴いたのでした。

帰国後の1977年7月9日、カトリック信徒としての洗礼を戴いた後に、知的障害の方々と、視覚障害の方との御縁を戴いて、「小さなうつわの会」が生まれました。

その頃不思議な出来事があり、私に戴いたこの会は神様からの贈り物と思いました。

その時の事を記した文です。

毎朝、十字架のキリストのお姿の前で、ロザリオのお祈りを続けていた時の事です。

突然、私の目の前に血を流されたキリストの御足が顕れ、その瞬間、神様の愛を受け止めていなかった自分に気付き、その傷は私がおつけしたと思い、お詫びしながら涙が流れて止まらなかったのを思い出します。

其の翌年の1978年に、知的障害の方と視覚障害の方との御縁から「小さなうつわの会」が生まれました。この会は、神様からの贈り物と思い、マリア様のご縁の月の5月、観音様のご縁の日の18日に発会致しました。私が考えていないのに、ただ、流れに導かれてのことでしたから、それは、亡き母が道を示して下さったと思いました

障害をもたれた方々とのご縁を戴いた私の今生です。今年の誕生日には、90歳になります。その年月を思い返すと、10歳の時、母が精神病者としての死姿をもって示して下さった流れから、十字架上のキリストのお姿に祈るようになり、祈るうちに、人にはこの世の試練があって心は磨かれ、浄められて、神様の御心を戴くことができると気付きました。

夫の家の信仰の御縁から、カトリック信徒としての洗礼を戴いた後に、知的障害の方々の造られる「うつわ」に出逢い、その「うつわ」が、視覚障害の方と結ばれて「小さなうつわの会」が生まれ、会を通して障害のある方々とのご縁を戴く事になりました。

続けて、その流れの思い出話しです。


旧小さなうつわのメッセージ(山梨版)は、こちら